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提言

「三田計算センターから三田ITCへ」

三田ITC所長 新保 一成


 私とITCの付き合いは30年になろうとしている。付き合うきっかけは、学部の3年生のときに計量経済学のゼミを選択したことにある。計量経済学では、経済理論をベースに検証可能な仮説を立て、それをデータによって統計的に検定し、検定に合格した理論を使って政策の効果などをシミュレーションするという方法をしばしば用いる。そのためには文字通り計算機を使ったコンピューティングが必須なのである。私の専門は、それ以来計量経済学であり、幸いにもこの30年間を通じて計算技術の急速な技術進歩を体感することができた。

 私がコンピューターと付き合い始めた1980年代中頃、今で言う三田ITCは三田計算センターと呼ばれ、大学生協から西校舎に入って階段を少し登った左側に位置していた。当時のコンピューターは、個々がパーソナルに使う今のPCとは違い、巨大な大型コンピューターの資源をみなでシェアして使うものであった。データを整理するにせよ、統計的にかかわらずあらゆる類いの計算をするするためにFortranやPL/Iなどの言語でプログラムを書いて実行していた。当時において計算するという作業は、パンチカードと呼ばれる紙カード1枚に1行のプログラムをパンチし、それを束ねた一つのプログラムにハードウェアを制御するジョブ制御言語(JCL)なるお呪いを付加して、カードリーダーでJCLとプログラムを読み込ませると、中央の巨大なコンピューターによって計算が実行され、その結果がこれまた巨大なプリンターによって出力されるという、大げさな作業であった。当時生協の前にプレハブのパンチ小屋というのがあり、そこでカードにパンチをして階段を登って計算センターに行き、計算を実行し、エラーがあればまたパンチ小屋に戻るという、現在の座りっぱなしという作業に比べると随分と運動量の必要な作業でもあった。

 学部の2年間をそのように過ごしていると、いよいよ時代はPCの時代に突入した。私の計算作業も博士課程の2年目ごろには90%はPCに移行したのではないだろうか。三田計算センターも大学院棟に移り、PC室も整理され、1990年代後半には慶應にもインターネットの時代が到来し、PCのOSもMS-DOSからWindows、Mac、Linuxの時代になった。

 この歴史の流れの中で三田計算センターもより広い意味をもつ三田インフォメーション・テクノロジー・センターと改称した。それと同時にコンピューターの利用にしめる計算のウェイトも徐々に低下してきた。それはもちろんインターネットの急速な普及による通信のウェイトが増してきたからにほかならないが、特に三田の利用者の間でコンピューティングに関する意識も通信の背後に追いやられてしまった気がするのである。私がコンピューターと付き合い始めたころのように何をするにもプログラムを書かなければならない時代には、プログラムを書けないことは何もできないことを意味していた。だからみんな一生懸命やった。今は、計算をするための道具も劇的に便利になり、やろうと思えばかなり複雑な計算でも簡単に実行することができるようになった。学習という面では、いつでもできることは後回しにするのが自然である。

 でも時代は、コンピューターにより一層複雑な仕事をさせるようとしている。より一層複雑な仕事を実行する工程を見出すには、経験に裏付けされた職人の直感のようなものが必要だと思う。自分でその直感をプログラムとして実装できなくても、プログラムの得意な人に青写真を提供できる、そのような能力がますます求められるようになってきたと感じるのである。そしてそのような能力は、いつでも簡単にできるからとコンピューティングをしないできた人たちには、残念ながら育まれないだろう。

 三田計算センターが三田ITCになったのには、それなりの理由がある。地理情報、画像、ときにビッグデータと呼ばれるインターネット上で交換される巨大な情報、数万もの企業や家計の情報、これらを駆使してコンピューティングすること、まさにインフォメーション・テクノロジーを総合的に使った手法が、刻々と変化する時代の複雑な現象の解明するために、防災、経営・マーケティング戦略の立案など多くの分野で要請されているのである。このような時代により一層複雑な仕事を行うための青写真を提供できる人材が三田から数多く輩出することをサポートできるような三田ITCでありたいと思っている。

最終更新日: 2013年11月12日

内容はここまでです。